2007年09月03日

ゴヤという画家について

ゴヤの『裸のマハ』と『着衣のマハ』の絵が如何に素晴らしいものであったかは、その絵を観た人にしか、決してわかりません。美術書などで見ても、ゴヤの描写は本当には、決して伝わっては来ません。キャンバスのサイズは、97×190cmですから、丁度畳一枚分です。それが、二枚掲げられているのを観ますと、まるでそこに生き生きとした不滅の笑みを浮かべたマハが、時代を超えて不老不死で存在している誠に不思議な感覚に捉われます。

『裸のマハ』と『着衣のマハ』は、まさに、ゴヤの作品中では傑作中の傑作でしょう。ゴヤの絵で、最初に驚かされるのは、彼の写実を超えた描写です。例えば、『瀬戸物売り』という作品は、さりげなく瀬戸物が陳列していますが、この作品を観て驚くのは、いくら眼をこすっても、本物の瀬戸物が絵の中に存在する錯覚が起きます。それぐらい彼の描写は恐ろしいくらいリアルなのです。

しかし、彼の絵はキャンバスに描かれたすべてをリアルに描くのでなく、一部をそうして描くところがあるのです。「近代美術はゴヤの自由から生まれた」とアンドレ・マルローは言っていますが、まさしくゴヤは旧体制から革命の時代を生抜いています。

彼の作品には、宮廷の肖像画が多くありますが、そうしたものからの内なる嫌悪感から、様々な彼独自の告発的絵画が生まれていきます。

「プリンシペ・ピオの丘での虐殺」では、市民を銃殺しょうとする兵士の絵が描かれています。この両手をかざした市民の悲愴な顔を観たとき、ピカソのゲルニカの絵を不思議と思い出しました。直覚ですが、ピカソはこのゴヤの絵をふと想ったかもしれません。

ゴヤの心は、宮廷から市井へと向かって行ったようです。しかし、それとともに彼の絵は『サン・イシートロ祭』とか『スープを飲む二人の老人』など彼の美しい色彩が徐々に暗い色彩へと変化していきます。

彼の『犬』という作品は、大きな余白の下に首だけをちょこんとのぞかせているその表情を、『余白』という表象で犬の心の心細さや、むなしさが表現されていてこちらの心に良く伝わってきます。それは彼の心を表しているかのようです。

彼の作品の中で『わが子を喰うサトゥルヌス』という作品がありますが、この作品と『裸のマハ』と『着衣のマハ』の作品との落差に大きなショックを受けます。

何か、人間のおぞましい「some thing」を予感させられます。私たちの身近なテレビニュースで、お金欲しさに平気でわが子を殺す世相は、『わが子を喰うサトゥルヌス』以上のものですから、現代はもっともおぞましい時代の中に入っています。今を如何に生きて行くかは畢竟、個々の課題として克服して行くしか道はないようです。 by 大藪光政
posted by ゴヤの弟子 at 17:37| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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