2007年11月24日

何故か脳裏に出てくるクレーの絵・・・

この頃、クレーの絵が頭によく浮かびます。その絵は、『セネキオ』です。この作品は日本語で、野菊という意味だそうですが、絵そのものは野菊とは、ほど遠いあどけない子供の顔とでも言いましょうか、明るいオレンジ、ピンク、朱、紫、赤といった色彩で包まれています。

この作品に出合ったのは、随分前になりますが、中央公論社の画集にも入っています。クレーの絵が好きになったのは、私の性格として『埴輪』のような、素朴な表情が好きだったからでしょう。

ですから、最初に気に入ったのはこの、『セネキオ』です。しかし、作品の名前なんてどうでもよいのです。もともと作品名なんてものは、管理する上で必要なものだからつけている程度としてか見ません。本質は常に作品にあるのです。

例えば、音楽にしても作品名というのは、クラシック音楽の場合、殆ど後世の人が勝手に付けたものですから、当てにならないし鑑賞の妨げになります。

何故、クレーの絵が好きなのか?という事に関してもうひとつ上げられるのが、彼の作品を見ているとなんだか、古代のイメージも出てくるところでしょう。

日本の古墳にも、壁画が発見されていますが、その中でクレーみたいな素朴な表現を多く発見します。そして、それはまさしくクレーだと思うのです。

古代の人の素朴さとクレーの素朴な心が同一であると信じることのできる・・・そんなところが好きなのです。

そんな、素朴なクレーの作品を見ますと絵画は、文学よりも表現が無限に広がっていることに気付きます。文学は言葉の集積体ですが、あくまで『言葉』は、記号であり、文章は暗号でもあるわけです。

それに対して、絵画は記号ではありません。また暗号でもありません。解釈など存在しないのです。描きたい人が描くままに・・・見る人が見たいままに・・・以心伝心でファージに相互交信をするのです。

ですから、答えなんぞありません。受けるとめる人の心に対していろんな想いが宿るだけです。そんなところから、クレーの作品を見ますと、作品の中には、初期の写実の絵もありますし、具象画もあり、そして古代文字を書いたような意味不明の抽象画もあります。

クレーの絵には画家としての描くことに対する真摯な取り組みがあると感じています。それは、制作されてゆく作品の変化を読み取ることでわかります。

表現に対する取り組みとしては、精神性すら感じられます。画家として、ミロの作品と近似した作品も見受けられますが、ほぼ同世代の画家ですから、双方の影響もあったでしょう。

たとえば、ミロの1953年頃に描かれたものと、クレーの1940年に描かれた『鼓手』という作品などは、趣が同じです。おそらく、クレーに影響されたのでしょう。

クレーの絵画が私の脳裏に浮かぶ唯一の理由は、古代への回帰を心で想っているからではないか?と、昨今気付いたところです。

by 大藪光政
posted by ゴヤの弟子 at 18:49| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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